わからなくていい。『虚数の情緒』が教えてくれる「知らないことの豊かさ」

この本を読み始めて、しばらくたつ。読み方は決まっていて、毎朝1ページ。聖書を読むような感覚で、じっくりと、ゆっくりと。

正直に言えば、数式はほとんど理解できていない。公式を目で追っても、意味が頭の中で像を結ばないまま次の行へ進む。それでも読み続けているのは、ページの下の方に時々現れる「話題」と題された補足欄が、妙に面白いからだ。

虚数の情緒 [ 吉田 武 ]

今回紹介したいのは、中盤、一次関数と連立方程式を扱うあたりで登場する一節。テーマは「中間値の定理」。

名前だけ聞くと難解そうだが、吉田武はこう切り出す。


犯人がある建物に逃げ込んだ時、その入り口と出口を閉鎖すれば、必ず犯人はその中に居る。


ああ、そういうことか、と思う。数学の話をしているのに、まるで推理小説の一場面だ。

借金まみれだった人が1年後に大金持ちになったなら、その途中に「残高ゼロの瞬間」が必ずあった。

恋が始まり、そして終わったなら、その間に「恋人でも他人でもない、気の合う友人と呼べる状態」が必ずあった。

成長し、やがて衰えていく肉体には、「ピーク」と呼べる一瞬が必ず存在する——。

例えがどんどん続いて、気づけば「中間値の定理」が、ごく当たり前の人生の話に見えてくる。

そしてこの文章の核心は、後半にある。


数学が理解できない悔しさは、この「当たり前」が理解できない、或いは、見落とした悔しさであってほしい。


難しいことがわからないのは、仕方ない。でも簡単なことを、じっくり考えずに見落とすのは、悔しい。

研究における本当の失敗は、複雑な問題ではなく「コロンブスの卵」、つまり誰もが気づきそうでいて見落としていたことから生まれる——と吉田武は言う。

そしてこう続ける。


「何も知らない」諸君は恵まれている。「知らない」ことは素晴らしい。知る可能性が開かれている。


これを読んで、すこし救われた気がした。

数式がわからなくても、この本を読んでいていい。何も知らないまま朝の1ページをめくっていていい。

知らないことは、恥ではなく、まだ何かが始まる余白なのだと。

吉田武という人は、数学者であると同時に、言葉の使い手だと思う。難解な定理を、人の一生や恋愛や借金で語り直す胆力。

そして「知らないことは素晴らしい」と、臆せず言い切れる強さ。

数式がわからなくても、この文章だけで、この本を読む価値がある。

※コロンブスの卵についての有名なエピソード。

コロンブスがアメリカ大陸を発見して帰国した後、宴席でこんな嫌みを言われた。

「そんなの、西に船を走らせれば誰でもできる」と。

コロンブスはその場にいた人たちに「卵を立ててみせてください」と挑戦した。誰もできない。するとコロンブスは卵の底をテーブルにトンと打ちつけて、少しへこませて立てた。「そんなの、それをやっていいなら誰でもできる」とまた文句を言われると、「そうです。やり方を知ってしまえば、誰でもできるんです」と答えた。

つまり「コロンブスの卵」とは、やってしまえば簡単だが、最初に思いつくことが難しいアイデアや発想のこと。

吉田武がこの本で使った文脈では、「研究の失敗は複雑な問題からではなく、誰でも気づけそうなのに見落としていた単純なことから生まれる」という意味で使っています。だからこそ、「簡単なことを侮るな、丁寧に新鮮に向き合え」という話につながっていくわけです。

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この記事を書いた人

初めまして。yulippe(ユリッペ)と申します。
福岡在住の50代女性。不動産業界に20年、調理師としても働いてきた。
今は猫と暮らしながら、人生後半を自分らしく生きるために 読書を続ける日々。本・お金・暮らし・美容・福岡のことなどを、50代のリアルな目線で書いています。

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