
『虚数の情緒』(吉田武著)の、中盤に登場する差込記事「話題:座標変換」の一節。
数学の本です。今回は「座標変換」についての解説の最中に出てくる話です。
数式の解説なのになぜか唐突に、読書論として最強クラスの文章が飛び出してくる。
吉田武という人は、こういう人なんです。
では、そのまま引用します。
座標変換という考え方は、我々の精神を、素粒子の極微の世界から宇宙の果てまで自在に飛翔させる力を持っている。我々は、銀河の星々の間を瞬時に往来し得る「想像力」を持っている。何もコンピュータの力を借りなくとも、人類は太古の昔から、この座標変換という名の想像力を縦横に駆使して、自由な旅を続けてきたのである。
コンピュータは、我々の想像力を後押ししたり、それを目に見える形にするためにだけ意味があるので、コンピュータに想像力を育ててもらおう、などという考えは、正に本末転倒の絵空事である。若し、「彼ら」に本当にそんな能力があるのなら、逸早く自分自身を教育し、不眠不休の大想像力を駆使して、とうの昔に我々を凌駕した恐るべき存在に成長しているだろう。そんなことは近い将来にも、恐らく遠い未来にも到底起こりそうもない。諸君は、気長にしっかりと学んでいれば大丈夫だろう。何しろ我々人類ですら、想像力とは何か、を未だ掴みかねているのである。
唯一つ疑いもなく云えることは、想像力も自らの意思で伸ばそうと意識的に努力するのでなければ、決して本物には成らない、という人類の歴史が示している冷徹な事実である。
「映像は文章に比べて刺激的である」これはある意味では正しいだろう。「映像は、文章の何倍かの情報量を持っている」これも本当だろう。然し、我々が本当に欲しているのは、量ではなく質である。本物の刺激である。映像や音声による刺激は、単に見た目が派手なだけで、想像力の育成に役立つとはとても云えそうもない。少なくとも必須ではない。それは今後の研究に待つまでもなく、本当に創造的な卓越した想像力を持った人物が、人類史の中で既に多く存在しているからである。
「タレス」は「アルキメデス」はどうだろう。「ダ・ヴィンチ」や「ミケランジェロ」は、「ニュートン」は、「アインシュタイン」は、どうだろう。彼らは、みんな素手で、脳一つで、偉大な業績を挙げてきた。
読書に拠って、自らの頭の中に広がっていく想像力のうねりは、目から入る映像刺激より、本当は何百倍も何千倍も強くて深いのである。それは、寧ろ映像が欠落している事に因って得られる刺激である。不足している映像や音声を埋めんが為に、脳は大いなる飛翔を始めるのである。下らぬ刺激でその道を閉ざしてはならない。
──吉田武『虚数の情緒』「話題:座標変換」より
ちなみに「座標変換」について少し解説

※座標変換とは、同じ点を「別の物差しで測り直す」数学の技法。吉田武はその力を、人間の想像力そのものだと言います。
「映像が欠落しているから得られる刺激」。
映像がないから、脳が動く。足りないから、想像する。
そのプロセスこそが、読書の本質だと筆者は言います。
YouTubeなどの動画や映像を否定したいわけじゃないんです。
でも、脳を飛翔させる体験という点では、本はいまだに最強の媒体なのかもしれません。
数学の本の片隅に、こんな言葉が潜んでいる。だから『虚数の情緒』は、ただの数学書じゃないんです。


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